大学がいつも提携している施設で看護学実習を行っていた時のことです。

”臨床的な指導をされていますね”

と実習施設指導者である看護師よりカンファレンスの場で学生への意見とともに頂いたことがある。

その時の私は、指導者からこの言葉をいい意味で捉え礼を述べた。徐々に私は、この言葉の真意はなんだろうかと考えるようになった。
今までの実習指導者あるで教員は、どのような視点で何を教えているのだろうか知りたいと感じた。医療というのは人の生命に関わることが多い職である。自ずと臨床実習においてもその点を忘れず行っているならば、どのように幸せに患者が活きていけだろうか援助を行うことになる。私は、優先順位をつけながら患者が必要となるであろうことや日々の変化に関する要因を考察し、看護としての予防・軽減に努めれるように関わることが仕事であると思っている。

技術的にも即戦力となる看護師を求める専門学校と
エビデンスを求め理論的な考察を深めながら研究と実践を行う大学教育との枠組みに関係なく私は、この点において”臨床”で働くのであれば普遍的なモノであると認識し学生指導にあたっていた。経験から得た私の答えは、臨床で働く看護師としてどうするべきでかを考察する場所として実習を位置づけていた。どの社会でも言えることであると思うが、クリティカル(批判的な思考)をもって物事に取り組み、統一された答えのない場で最適解をみつけ実践するのが臨床である思っている。看護師からの発言からも基礎教育と云われる学士教育の中に臨床との乖離が存在していると感じられた。

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実際に私は、大学教員や大学院から研修として私が元働いていた職場に多くの方が来ていた。やはり教員となると、私達が行っているケアなどの看護に対し、とても基本的で教科書や文献にあるような意見を述べることが多かった。意見の中で臨床で改めて実践できることもあったが、大半は

「必要なことであるのだろうか? このエビデンスはホントのことであるのだろうか? このシステムをすすめるポイントの主体がずれているではないか?」

と考えることが多かった。頻繁に意見を推し進める(愚痴を云うような)ことがあったので、私は患者のもとで仕事が捗るように逃げまわったものである。教員と話すより患者と話している方がいいと感じていた。

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数日、実習施設などで指導を行いながら悶々とこの件に関して考え、私の臨床での経験した記憶と合わさるなかで基礎教育と臨床における教育方法の乖離はどこかに存在するであろうと確信を持つことができた。その結果、臨床では考えられないような理想を実習指導で求めているのはないだろうか。

例えば、患者の行動抑制を必ずしてはいけないと言われたらどうだろうか。実際に50床以上で建築構造的に死角の多い病棟に於いて、抑制なく転倒や事故の帽子をすることが可能であるのだろうか?私も患者へ対応できる時間帯は、倫理的に考えて抑制を行わないように努めている。しかし、意識がもうろうとした気管内挿管をされている患者が無意識に酸素が流れるチューブを抜けばどのようなことが起こるのだろうか予測はできる。だから予防策として抑制を選択をしている。できる限り看護スタッフが多い時間帯は転倒リスクのある患者に抑制を行わないようにしているだろう。倫理的に問題はあるかもしれないが、転倒し骨折や脳出血を起こした場合に患者含め患者家族は、スタッフや病院に対しお咎め無しで終わる問題にしてくれるだろうか。おそらく管理問題に関して言及されることであろう。

なので、私は闇雲に禁止してしまうことなくさらに議論の場をつくり学生が実習する中で、行動抑制に関して倫理的な面や意義を考えて看護計画を立案し患者と関わることが将来活きる術として大事だと考えている。学生自身が考える場を作るために成功体験だけでなく、患者への影響がない範囲で失敗を体験してもらうように関わっている。敢えて指導はせずに学生に何でもやってみるように告げ、指導者や患者の反応など知り後に指導できるように関わっている。その後、「どうすればよかったのか、次はこのようにしよう」という意見がカンファレンスで言えれば良いと思っている。事前に考えたことを実践し、結果的に行動を修正してくことが自主性であると私は考えており、この過程を身につけた人材になれれば、

批判的な思考を持って関わることもできるだろう。それは優秀な人材になれるのではないかと思っている。優秀な人材が増えれば、離職率など関係なく必要な人材よりも少人数でも仕事はまわる。離職率は、ただ人生において予想以上に辛い体験などを受け単純に辞めたい人材が多いからであると考える。ならば、先に辛い体験をすれば良いのではないか、徐々に体験すれば軽減できるのではないかと思っている。保護をすることは簡単であるが、それで良い人材は生まれない。社会・世界と揉まれることで素晴らしい人材が生まれるのだから

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ローマの時代の学校のように数が少ない為に貴重であった教科書を学生へ読み聞かせて写す時代ではない。お経のように大学講義を話してばかりでなく、意見を聴きそれに対して話せる討論できる人材のために大学はあると思う。海外の大学では、上記のような素晴らしい傾向があるに対し日本の大学では特に学士過程で不足していると思う。国家資格などを取るためだけの大学や高校授業の延長である大学これは必要なのだろうか、国が税金を投入する必要があるのだろうか。質が保てないならば適切な数まで大学を減らすことが大事だと思う。

このままいけば日本の大学は、腐った果実が新鮮な果実まで黒ずむようになるでしょう。奨学金制度もしかり、すべての人材が大学教育まで行う前提の社会であるため日本はアラユル面で資金が不足するのではないでしょうか。もっと自由であっていいはずだと思っています。全て人が同じ道を歩まなければならないならロボットでになればいいのではないでしょうか。

例えば、どらえもんは優秀です、のび太くんのために全力で仕事をしています。そんなの楽しい、幸せのはずがありません。未来が視えないなら大学入学しから考えるのではなく他の道があることを考えてみてください。私立大学にいるだけで年間200万円近くを失うことになくなります。それだけあればワーキングホリデーも十分できますし、世界一周もできます。他の国の同じ年令・世代の人々に会ってみてください。

それからでも大学入学は遅くありません。

P.S.

ナイチンゲール(特に啓蒙しているわけでない。別に好きでもない。)は、クリミア戦争で環境が大事であると述べている。しかし私の勤める大学は優秀なデザイナーによる建築物であり開く窓がない。開閉できる窓がなければ新鮮な空気を取り入れて換気ができない。デザイナーが素晴らしくてもリラックスできなければ、いいものは生まれないだろう。

Clinical instruction ー臨床的指導ー

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