職場で信頼できるほどの信用を持てる方がいるだろうか?

例えば、今まで信頼できると思っていた上司が、自ら築いた信用を失うようなことがあったらどうでしょう。

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ちなみに

  • 信頼 過去に対して評価すること(過去の実績や成果)
  • 信用 未来のことに期待すること(実績や業績・振る舞いに基づいて相手に頼ること)

信頼できる人材は、すぐに可視化できるような業績や実績がなくても振る舞いから頼ることができることも多い。

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私の場合、相手の一つの過ちから信頼しないとならにように決めている。
全ての人間は失敗をすることが当たり前のことであり、その後の行動が大事であると臨床やAustraliaで私は学んできた。ただ、今まで彼らが人生をかけて信用によって築いてきたと私が思っていた相手の地位から考えると到底理解ができないような行動、今の政府のように真実から逸れ言葉尻を変えながら言い逃れのみしてきたらどうだろうか。別に武士の一分のように切腹をすることを求めているのでなく、説明責任を果たさないような行動を日本において最高基礎教育機関である大学で行って良いのだろうかと思うのである。

確かに周囲からみればあまりにも怪しい経営方法しているなと感じる点はいくつもあり、私は職場を一般的な大学の一つとして認識できていない。
しかしどのような環境であっても人材が揃えば素晴らしい教育できるのはないかと思っていた。世の中を動かすような人材は、いつも十分に環境が整っているような場所で働いているわけでない。そのため自らの力で周囲を巻き込みながら自分に適した環境を構築るるなど相手へ影響を与えていると思う。

”残念ながら私の考えでは、十分な人材が不足している。”

とても建設的な考えをもっている教授陣のようにはみえず、行き当たりばったりな対応をしている事が多い。あまりにもお粗末すぎる点が多いなと感じてしまったのである。

ある意味、周囲を”巻き込んでいる

一般的に社会に出ていくと相手が考える以上にパターンを想定して、どれが最善の道であるのか予測して関わることが多い。省官庁でさえ天才的なロジックを組み立てており、信頼できないストーリーを構築している。これを身につけるには人生での経験が大事であるし、経験することで太刀打ちができない事例に関しては勉強をするはずである。失敗をすればするほど大きな失敗をなくし、経験として自分の人生の糧として構築できる方法を見出すことができる。私は教授たるもの、そのような道を既知としており、まさに”先を生きる”=先生でもあると思っていた。

実習施設等の関係者各位への謝罪で、それなりの地位のある者から対応であるならばいい方向へ進むことある。しかしながら今回の案件は、平社員のような存在である我々が謝罪を出向くのだから納得できないところも充分にある。一度、するべき上司たちが真実を隠蔽して報告しているなら尚更である。
”今回の件につきましては、大変ご迷惑を皆さまにおかけいたしました”
と明らかに労力が無駄なことをすると思わなかった。

このような事例が起こった背景には、結局のところ前回も述べた看護系大学の急造が原因であると思う。一般的な教授になるまでの過程として、その分野の長となるだけの社会から信用できる実績・業績が必要となる。

例えば、大学院での博士課程を修了していることや論文や公演、各分野の学会での地位などが大事である。
しかし現状として一年足らずで教授や准教授になるシステムがあるとするればどうだろうか。今までに築いた経験がが素晴らしいものであり、ついに然るべきポストへ昇格したのであれば円満に許せる話なのかもしれない。まあそういうことは稀有な事例であるので大半は、天下りと同じく大学を鞍替えしながら昇格をしていく。

先程述べたようにその地位を獲得すためには信用できるモノが必要となる。それが論文であり大学院の課程修了証という実績・業績である。大学院の修了にあたり一般的に論文を書き提出・発表することが多い。結果的に、そのような人材は大衆(提出する学会や大学)受けがあり、研究しやい表現しやすい上に評価されやすい内容を書くことになる。物理的に研究する時間がないのであれば必然的に質を落とすしか無いのであるから。

本来あるべき志とは事なる世界であり、教授という【地位】が及ぼす弊害である。

そして、この地位をもって教育に革命を起こすのではなく、どっぷりと利権の湯船に浸かるあたりが腹立たしい。
たとえ地位に溺れても本質的に賢い人材であれば、汚職となるような部分を凡人の私達へ一切察知できないように隠すであろう。しかしそうではなかった。
あまりにも彼らの行動があっけらかんとしているので、私たち部下へのトラップを仕掛けておりいつでも尻尾を切れるようにしているではないかと思ったほどだ。”学生の質がよくないと嘆くまえに己の心にきいてみる”ことも大事だと思う。

このように感じはじめると上司への批判的に考える精神が必要となり、彼らの論文をみてきた・みている学会関係まで信用できなくなる。ある学会で原著論文として発表しているから、メディアに出ており本を数冊出版しているからという素晴らしいといえなくなる。学生から訊かれたら、私は”この点に関して何とも言いがたい問題であり、真実は闇である”と云うしか選択肢がでてこない。

また、特に実践力がモノを臨床という世界において、どんな論文でも実践に役立つような内容が求められる。実際、臨床に携わる人材のほうが素晴らしい視点で論文を書き、研究方法も時間を要するようなものを選び患者から協力をコツコツ得ており役に立つテーマが多い。しかしなが唯一欠点として挙げるならば論文として書き慣れていない者が多く、表現力も乏しいため結果的に学会の査読まで進んだとしても修正が多くなり発表できない程にお粗末すぎる体裁になることもある。一方、地位を築くような方々は、この点に関して素晴らしいものを持っており、いかに題材以上にを見栄えががよくなる方法も知っている。
論文という調理方法を知る彼らのほうが素晴らしいし発信力がある。私の職場の大学でさえ、表現力や発信力についてのみでいえば学ぶだけの価値がある。ただ彼らの表現方法はあまりにも堅苦しすぎることもあり、私のような凡人ならば日本語であるに関わらず思考しながら何度も翻訳が必要となる…

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おかげで彼らの学生への講義内容は、学生の学力が看護実践に向いていない状態であればれあるほど最高の子守唄と化す。学生に考えさせるのではなく、教科書を見ればわかるようなことを難しい表現で話しているのだから、講師自らの時間を消費する視点にのみ注目された内容とも云える。講義内容の中には、海外の大学のように予習がしっかりできた状態のもと実践的な思考を自ら持っている学生が初めて理解できるようなアカデミックな内容を行っていることもある。それでもバリバリ臨床現場で働いた場合、否が応でも臨床にいけば当たり前のように学ぶことであり特別な内容ではない。いきなり利益を生み出すために作られた学部生へ、そのようなレベルを求めるのであれば初年次からの抜本的な構造改革が必要となってくることは十分予想できる。

高卒メジャーリーガーのような存在になるための人材育成や人選をしなければならない。

例えば容易に単位を認めない出席やレポート提出すれば大丈夫のような試験や講義内容にしない枠組みも整えなければならない。質を求めていくには、一つの方向からアプローチしても問題解決できない。上記のようなことを当然ながら教授となるべき人々は、自然と学んできたはずであるし容易に考えを持つことができる存在のはずである。まずは相手が興味を抱く、考えなければならない状況をつくる講義を開講しなければならないこのような素晴らしい講義には、日本の大学教育において既存の常識にとらわれない部分を多く取り入れてなければならず、大学の講義において自称プロの彼ら教授陣でさえ莫大な労力を要する。———————————————————————————

表現力・発信力が乏しければ海外の論文と戦うことができない。私自身、時折であるが日本の大学院へ行く道を諦めてからも同僚と海外論文の翻訳をしている。これがかなり面白く、臨床でナースなどが臨床現場や大学院で発表したものである。論文自体は、第二言語となる人々でも英語のまま読めるようにとなっているだけあり表現が優しくかつ、表現力も豊かである。
翻訳しながら内容を読み解く間は、アカデミックな雰囲気を唯一職場に来てから感じることができる貴重な時間である。
※アカデミック性を唯一の時間と感じるのは、私の感性自体が弱っているからなのかもしれないが…

IMG_1767
Between relaxable trees

P.S.
海外のある看護システムは、大学院などでキャリアアップを行わないと給料に反映されないシステムとなっている。
これは否応にも臨床と高等教育の現場が常にリンクし結果的に風通りの良い雰囲気をつくっているのはなかろうか。専門学校から大学教育へシフトしていく過程でなぜか日本は、上記のシステムを作らなかった。もしかすると時の人々は、教育現場にいるよりも臨床現場で長年積む方がほうがキャリアアップに適していると判断したのかもしれないし、彼らはただ変遷期の利権に群がりたかっただけなのかもしれない。

私が今まで批判的に述べてきたことが全てが間違っており、私の考えることがそもそも理想であり社会にとって受け入れがたいもので困難な事案なのかもしれない。ただAustraliaの看護教育は興味深いもので、自国民は基本的に大学教育を経て看護師となる。オーストラリアは、給料も時給制で休暇も権利として充実しており、超勤を許さない文化の国である。週末の出勤は、時給がほぼ倍増することが多い。そして最も大事なキャリアアップでついてであるが、ある勤務年数をすぎれば経験による時給は一切増えない。そのため給料のベースを上げたければ、大学院などで専門性のある領域を学ぶことが求められる。

ただ、このシステムがオーストラリア看護を素晴らしいものとしているかどうかは別問題であり、なんとも言えない。オーストラリアでの看護について”これ十分だ”いう人もいれば、日本人のように優しさがや気配りが不足していると嘆く人もいる。しかしながら多民族国家のため移民も多いオーストラリアでは、国民の全てがクリティークや議論をする国民性を持っている中でシステムが維持されているのであれば、一定の価値があるだろう。

あまりにも不当な制度であるのならば覆すだけの力を日本に比べて充分にもっている国であるのだから

※海外から看護師となる場合、祖国の学士号をもっているかどうかなどで現地での道が異なる。
http://www.nursingmidwiferyboard.gov.au/Registration-and-Endorsement/International.aspx
ある大学での論文であるがとても興味深い(少し古い)
http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/pdf/kad/15-12/KJ151205.pdf

信頼 信用 trust believe

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